DAVID BOWIE is ナレーション日本語訳
(ナレーション:ゲイリー・オールドマン)
1:ロビー LOBBY

デヴィッド・ボウイは教えてくれました、我々は誰だろうとなりたい人間になれるのだと。1970年代に彼は、個の尊重とセクシュアリティの自由を奨励し、約50年間にわたって比類なきサウンドとヴィジョンで聴き手を興奮させ、驚かせ、また歓喜させてきました。彼の作品は現在も、その独特のペルソナとスタイルを通じて、アーティストたち、デザイナーたち、ミュージシャンたち、そして数多くの信奉者たちをインスパイアし続けています。
2:成長期 Growing Up

デヴィッド・ボウイは群衆に混じった顔のひとつである
DAVID BOWIE is A FACE IN THE CROWD

成長期

デヴィッド・ロバート・ジョーンズ、のちの「ボウイ」は、1974年1月8日にブリクストンで誕生。1953年に両親と共に、ブロムリーに程近い郊外へと移り住む。時々異母兄が家に滞在し、ジャズと、新しく登場したビート作家たちへの関心を、デヴィッドの内にかき立てる。
3:スペイス・オディティ SPACE ODDITY>

デヴィッド・ボウイはとびきり奇妙な姿で宙を漂っている(非常に奇怪な姿で中を漂う)
DAVID BOWIE is FLOATING IN A MOST PECULIAR WAY
躍進

1969年1月:初めて宇宙から撮影された地球のカラー写真が、新聞の紙面を飾る。ボウイは、宇宙を独りで旅する宇宙飛行士にまつわる新曲に、「地球は青くて/僕にできることはなにもない」と綴った。彼はその楽曲を“スぺイス・オディティ”と命名――スタンリー・キューブリックが監督した、1968年公開の映画のタイトル『2001年宇宙の旅(原題 2001:A Space Odyssey)』をもじったものだ。

このシングルが発売されたのは、アポロ11号による月飛行が目前に控えた7月のこと。7月20日にBBC(英国放送協会)は、「地上管制官からトム少佐へ/回線が不通だ/なにかがおかしい」と歌う“スぺイス・オディティ”に乗せて、月面着陸の映像を放映した。奇妙なチョイスだろうか? でも、なんと素晴らしい楽曲だろう。“スぺイス・オディティ”は10月に、全英チャートの5位まで上昇。「ボウイ」はここにきてようやく、突破口を開いたのである。
4:(内なる空間の宇宙飛行士)インナースペースの宇宙飛行士 Asdivonauts of Inner Space

デヴィッド・ボウイは(これから訪れる世界に想いを馳せている)来る世界に思いを馳せている
DAVID BOWIE is THINKING ABOUT A WORLD TO COME
内なる空間の宇宙飛行士

1972年7月、テレビ画面を通じて英国全土の家々に飛び込み、ティーンエイジャーとその親たちの度肝を抜いたボウイは、赤いブーツを履き、赤い髪をなびかせ、赤い血をたぎらせて、ジャンプスーツをまとって、テレビ番組『トップ・オヴ・ザ・ポップス』で“スターマン”を歌った。それは、いまだかつて誰も見たことのない光景だった。男の子なのか、それとも女の子なのか? 地球人なのか、それとも宇宙の彼方からやってきたのか?
彼は自分の衣装を「リバティ社の生地で仕立てたウルトラ・ヴァイオレンス(超暴力)」と呼んだ。スタンリー・キューブリック監督の映画『時計じかけのオレンジ』のスタイルに惚れ込んで、それを自分の表現に置き換えてしまったのだ。ジェンダーや社会の規範に疑問を投げかけるボウイは、架空のアイデンティティを探求する、グラマラスな先駆者だった。作家J・G・バラードが描いた「内なる空間の宇宙飛行士」のひとりであり、精神の領域の探検家。人間が企てることすべてが進化を意味するとは、納得していなかった。ポップは徹底的な見直しを必要としており、「媒体そのものがメッセージ」であると考えていた。

「僕は誰かに電話をせずにいられなくて君を選んだ」とボウイは歌う。アイデンティティを構築し、あらゆる場所からアイディアをつまみ上げながら、それをでっち上げている。あなたも彼の仲間になれる。あなたは選ばれたのである。それが誰だろうと、自分がなりたい人間になれるのだ。
5:文化的影響 Cultural Influences

デヴィッド・ボウイは機械時代のナイフ芸を繰り出す
DAVID BOWIE is USING MACHINE AGE KNIFE MAGIC
創造の影響源

どのアーティストも自分を取り巻く世界からアイディアを得ているが、途方もなく広い範囲にそれらを求めたり、そこから見つけたものをもとに、まったく新しいなにかを創り出せる者は、ごく稀にしかいない。

デヴィッド・ボウイの作品は、アート、書籍、映画、演劇、アヴァンギャルド・パフォーマンス、会話、そしてあらゆる種類の音楽の影響を受けている。彼にとっては、1冊の本のタイトル、もしくはその表紙も創造の触媒になる得る。或いは映画で目にした服装、或いは哲学、或いは偶然の「オブリーク・ストラテジー」も然り。

新しいアイディアを探し求めるボウイのエネルギーと、それらを濾過して自分が必要としているものを見極める手腕が、彼の成功を特徴付けている。ボウイの作品は、レコード会社の意向に従うことも、ヒットの方程式を繰り返し用いることもしない。彼は常に、次のなにかへと移行するのだ。
6:ソングライティング SONGWRITING

デヴィッド・ボウイは常に言葉やポーズを用意している
DAVID BOWIE is NEVER AT A LOSS FOR WORDS OR POSES
楽曲制作

ボウイにとってソングライティングとは、言葉と音楽とプロダクションとイメージを一体化させることを意味する。彼は音楽や演劇やアートから得た様々な影響の層をそこに重ねているが、同様にボウイの楽曲には、「毎回新しい発見があるように」と複数の意味が蓄積されている。1970年代の彼は、クリエイティヴィティの触媒として「偶然」に深い関心を抱き、通常のソングライティングの方法と並行して、カットアップ技法を導入。1990年代にはランダム単語ジェネレーターを用いた。ヴィジュアル表現をプロセスの一環と見做して、絵を描いて音楽的な質感を確認することもあった。

ボウイの楽曲が率直な、或いは、一元的な意味を表すことは滅多にない。「楽曲とはほかの人たちがそれぞれに解釈して、好きなように利用するためにあるというアイディアが気に入っている」と彼は語った。それにもかかわらず、詩的なフレーズの数々――「じっと見入る視線(a gazely stare)」もしくは「イカしたアバズレ(hot divamp)」――や、「僕らはヒーローになり得る」と歌うアンセムもまた、間違いなくボウイらしい表現であり、彼が偉大なソングライターのひとりである所以なのだ。
7:レコーディング RECORDING

デヴィッド・ボウイは自分自身を驚かせている
DAVID BOWIE is SURPRISING HIMSELF
レコーディング・スタジオ

1967年から2016年の間に、ボウイは27枚のスタジオ・アルバムと、合計で150以上を数えるライヴ・アルバム、シングル、ミュージック・ビデオを発表。使うスタジオは異なるかもしれないが、それは常に制作の心臓部であり、クリエイティヴな坩堝であり、緊迫した作業を行なって、長時間を過ごす場所であり続けた。

この49年間に起きたサウンド・レコーディングの進化は、ボウイの可能性を大きく広げた――4トラック・レコーダーを用いていた1960年代から、好きなだけトラックを増やせるデジタル時代へと。

どんな方法を取ろうと、どんな外的プレッシャーを感じようと、ボウイはその集中力とスキルとスピードで有名だった。究極的に彼は、常時自身の作品をコントロールしていた――発想し、制作し、さらにリリースに向けて収録曲を絞り込んで。彼のレコードは現在までに1億4千万枚のセールスを記録しており、今もまだ売れ続けている。
8:キャラクター CHARACTERS

デヴィッド・ボウイは自分をでっち上げている
DAVID BOWIE is MAKING HIMSELF UP
キャラクターたち

1967年、20歳のボウイはステージの魅力に開眼し、風変わりなキャラクターを介して、自分のアイディアを伝えることの可能性を悟った。

1960年代のロックはオーセンティシティに重きを置いていたが、ボウイは1970年をにらんで、別の場所に未来を見ていた――つまり、演技、芝居、仮面、化粧、衣装、歌舞伎、パントマイム、イマジネーションに。

トム少佐、ジギー・スターダスト、アラジン・セイン、ハロウィーン・ジャック、シン・ホワイト・デューク、探偵ネーサン・アドラー、ミノタウロといった具合に、彼は絶えず創造し、借用し続けた。

しかしそこには、デヴィッド・ボウイ自身も存在した。彼はキャラクター・アーティストであり、シュルレアリストのマルセル・デュシャンが1923年当時そうであったように、理解していたのだ、演じないことで演じられることを、そしてセレブリティに魅せられた世界では、ステージを降りた時のキャラクターもまた、そのままステージに立ち続けられることを。
9:コラボレーション COLLABORATION

デヴィッド・ボウイはその瞬間が提供するものを活用している
DAVID BOWIE is TAKING ADVANTAGE OF WHAT THE MOMENT OFFERS
コラボレーション

音楽、アルバム・ジャケット、衣装、舞台セットから、ツアー中に販売されるアーティスト・グッズに至るまで、ボウイは一貫して自身の活動のあらゆる側面をコントロールしてきた。そんな彼のヴィジョンは常に、振付家、アーティスト、フォトグラファー、デザイナー、ファッション・デザイナー、舞台セット及び照明デザイナー、ミュージシャンやプロデューサーたちとのコラボレーションから引き出されたものだ。そしてキャリアを通じて、メインストリーム/アヴァンギャルド、有名/無名を問わず、コラボレーターを探し出し、自分が伝えたいことを表現するために必要な声を見つける、際立った才能を誇っていた。
13:レベル・レベル REBEL REBEL

デヴィッド・ボウイはワセリンを塗ったトラみたいに動いている
DAVID BOWIE is MOVING LIKE A TIGER ON VASELINE
インパクト

デヴィッド・ボウイが、なにをすべきか人に指図をすることは滅多にない。彼は公然と独自の道を切り拓くことで、自分がなりたい人間になって、やりたいことをやればいいのだと、我々に教えてくれたのだ。

そんなスタンスは必然的に、体制側を脅かす。ボウイの先駆的なステージ・ショウや衣装やアルバム・ジャケットは、時によって検閲を受けて、修正や削除の対象となった。彼は真実ともマスコミとも、遊び心を含んだ反逆的関係を保ち、1972年には『メロディ・メイカー』誌に、自分は同性愛者であり、これまでもずっとそうだったと語った。同性愛者の権利保護を訴える運動が始まったばかりの時期に、別の形の男性らしさを鮮やかに提示。魅力的で、途方もなくかっこ良く、何百万もの人々に崇拝されていたボウイは、人々の考え方を変えてしまったのである。

誰もがデヴィッド・ボウイになれるわけではない。しかし自分が望むままに装って、自分のセクシュアリティを主張できるように――それを実践するのが困難な社会は今も少なくない――啓発を受けることは、誰にだって可能だ。全国を巡るこのドキュメンタリーは、現在とは異なる1973年の英国をさらけ出す。そこには支配者層が浴びせる嘲りだけではなく、ファンが抱いた賛美の念も記録されている。
15:火星の生活 LIFE ON MARS

デヴィッド・ボウイは(売れ行き絶好調なショウに出演している)大ヒットしたショウに登場する
DAVID BOWIE is IN THE BEST SELLING SHOW
火星には誰かが住んでいるのだろうか?

ボウイのシングルの中でも最も愛され、最も大きな影響を及ぼし、最も頻繁に再解釈された楽曲“火星の生活”は、ロンドンのソーホーにあるトライデント・スタジオでレコーディングされ、1971年のアルバム『ハンキー・ドリー』の収録曲として世に送り出された。ミック・ロンソンがアレンジを手掛けたオーケストラ様式の弦楽器は、BBC(英国放送協会)のセッション・ミュージシャンたちが奏でて、当初はボウイが弾いていたピアノのパートを、リック・ウェイクマンがさらなる彩りを添えて演奏。ジギー・マニアが盛り上がる1973年に、ミック・ロックが撮影した見事な仕上がりの宣伝用映像を伴って、シングルとして発売された。そして同年、全英チャートに13週間にわたってランクインし、最高3位まで上昇。BBCでドラマ『時空刑事ライフ・オン・マーズ(原題 Life On Mars)』が放映された2007年にも、同3位を記録した。
16: ジギー・スターダスト ZIGGY STARDUST

デヴィッド・ボウイは自分の顔の仮面をかぶっている
DAVID BOWIE is WEARING A MASK OF HIS OWN FACE

ジギー・スターダスト

「音楽にそのサウンド通りのヴィジュアルを与える」ことを望んでいたボウイ。彼が作り上げたジギー・スターダストは、単に演じるのではなくボウイが真になり切っていたペルソナの数々に、さらなる肉付けをした。

ジギーの人生を描く浮世離れした物語は、彼が名声を手にし、それを失うまでを描いている。このキャラクターは、エキセントリックなロックンローラーのヴィンス・テイラーやレジェンダリー・スターダスト・カウボーイ、そしてボウイのアイドルであるリトル・リチャードなど、多数の影響源から大まかな着想を得て生まれた。独特の鮮やかな赤の髪に加えて、奇想天外な衣装をまとい、それは常時華美さを増し、コンサートの回数を重ねるごとに頻繁に着替えるようになった。

1973年7月、ジギーが人気の絶頂にあった時にボウイは――いかにも彼らしく――ファン(及びバンドのメンバーの一部)を驚かせようと決めた。“ロックンロールの自殺者”を歌い始める前に、「これはツアーの最終公演であるだけでなく、僕らにとって最後のコンサートになる」と告げたのである。
17:ハンガー・シティ HUNGER CITY

デヴィッド・ボウイはガラスの隠れ家を建てる(あなたをじっと見つめている)
DAVID BOWIE is BUILDING A GLASS ASYLUM
ダイアモンドの犬たち

『メロディ・メイカー』誌が、このツアーを観ることができない地元英国の読者に報告したところによると、1974年の『ダイアモンドの犬』ツアーは「時代を数年先取りした、コンテンポラリー音楽と演劇のコンビネーションであり……私が観た中で、ロック界において最も独創的なスペクタクル」だった。

そのディストピア的な都市の風景を貫く美意識は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』をインスピレーション源とする。ボウイは当初、この小説をもとにミュージカルと映画を制作することを望んでいた。自らの野心的なヴィジョンを具現化させるために、彼は一流のミュージシャンだけでなく、トップクラスの舞台芸術関連のコラボレーターを集めた。それは、過去のロック・ツアーにはなかった試みだ。

『ダイアモンドの犬』は「フィリーの犬」と化して、ツアーは6月から12月まで続いた。終盤になると、ボウイは、のちにソウルにインスパイアされたアルバム『ヤング・アメリカン』に収録される楽曲も披露。ツアーは華々しい成功を収めたが、公式な映像は一切撮影されず、フィラデルフィア公演の映像は、本展覧会で初めて公開されたものだ。これを機に、ロック・ツアーの在り方は一変した。
18:ミュージック・ビデオ MUSIC VIDEOS

デヴィッド・ボウイは未来を切り取った写真である
DAVID BOWIE is A PICTURE OF THE FUTURE
ミュージック・ビデオ

1974年のボウイ:「それは3次元でなければならない……僕は単に楽曲を作っているだけでは満足できない」。才能豊かな監督やアーティストたちとのコラボレーションで生まれた、彼の先駆的なミュージック・ビデオの数々は、創造性と革新性の基準を定めた。

ミュージシャンたちは1981年にMTV主導の「ビデオ時代」が始まる前から、プロモーション映像を制作していた。

1981年に作られたアイコニックな“アッシュズ・トゥ・アッシュズ”の映像は、ボウイがサインペンで描いた絵コンテに基いており、ロンドンのナイトクラブ、ブリッツで見つけたエキストラたちを交えて、ヘイスティングスの海岸で撮影された。ただならぬインパクトを与えたこのミュージック・ビデオは、「ピエロの媒体」としてのロックのヴィジョンをボウイが表現した、最も優れた例だ。彼はその後も1980年代と1990年代を通じて、驚異的な数の、大きな影響力を誇るアイコニックなビデオを続々制作。MTVで放映されることで、ボウイのアーティスティックな表現と、絶え間なく変化し続けるキャラクターのサイクルを、効果的に提示する手段として定着した。彼の最後のアルバム『★(ブラックスター)』からもビデオが発表されたが、表題曲のビデオにはトム少佐のキャラクターがまたもや登場する。
19:舞台と映画 STAGE AND SCREEN

デヴィッド・ボウイはたくさんの仮面をかぶっている
DAVID BOWIE is WEARING MANY MASKS

ステージとスクリーン

ボウイがまだ子供だった1950年代、最大のアイドルと言えば映画スターだった。当時のポップ・スターダムとは、エルヴィス・プレスリーのように数少ない幸運な人たちが、映画やエンターテインメント業界で本格的なキャリアを築く前に、ほんの短い間だけ享受したもの。ボウイも1967年から1968年にかけて、俳優でマイム・アーティストのリンゼイ・ケンプに師事し、映画や舞台のオーディションを受けていた。

ボウイが生きている間に、大衆が憧れるアイドルの座は、俳優たちからポップ・スターたちに受け継がれ、彼もその変遷に貢献した。しかしパフォーマーとしての才能を備えたボウイは同時に、20本以上の映画、テレビドラマ、そしてブロードウェイのヒット作『エレファント・マン』に出演。2015年には、自ら主演した映画『地球に落ちて来た男』にインスパイアされ、戯曲家・舞台演出家のエンダ・ウォルシュと共作したミュージカル『ラザルス』を、ニューヨークでお披露目した。俳優としての彼もやはり、アンディ・ウォーホル、ポンティウス・ピラトゥス総督、ゴブリンの王といった多岐にわたるキャラクターを演じ、往々にして主流の作品より先鋭的な作品を選択。ボウイの演技はしばしば批評家に称賛される一方、時に冷淡な反応を得ることもあった。彼の息子は、高い評価を得ている映画監督のダンカン・ジョーンズである。
20:ニューヨーク NEW YORK

デヴィッド・ボウイはニューヨークの成功者である(ニューヨークで成功を味わっている)
DAVID BOWIE is A SUCCESS IN NEW YORK
舞台とスクリーン

1971年以降、ボウイはアルバムを宣伝したり、ライヴ・パフォーマンスを行なったり、新しい音楽をレコーディングしたり、ナイトクラブで遊ぶために、ニューヨーク・シティを頻繁に訪れていた。ソールドアウトになったラジオ・シティ・ミュージック・ホールでの『アラジン・セイン』の数公演は、伝説と化している。そしてロサンゼルスとベルリンで暮らしたのち、彼は長期間にわたってニューヨークで生活し、1992年からは中心部に定住するに至った。

ボウイは1979年に、ゲスト・ミュージシャンとしてテレビ番組『サタデー・ナイト・ライブ』への出演を乞われた。通常ゲスト・ミュージシャンは、自身のバンドを従えて2~3曲のパフォーマンスを行なった。しかし彼は型にはまることなく、趣向の異なる3つのパフォーマンスの“イベント”を企画。それぞれが驚きと喝采をもって迎え入れられた。

それから間もなくしてボウイは、準備期間を経て演劇作品『エレファント・マン』に主演した。彼はパントマイムのトレーニングに頼って、自身の肉体の動きを調節することで、主人公ジョン・メリックの身体的な障害を表現。ブロードウェイの舞台に立った史上初のロックスターとして宣伝されたボウイは、数カ月間にわたって公演し、多数の観客を集めた。
21:ベルリン時代 BLACK AND WHITE YEARS

デヴィッド・ボウイは自分の身に起きていることを充分に心得ている
DAVID BOWIE is QUITE AWARE OF WHAT HE’S GOING THROUGH
「ブラック・アンド・ホワイト」時代

ベルリンとはすなわち、ドラック依存を克服し、新しいエネルギーを見出して、次なる音楽的アイディアを掘り下げるための逃避先であり、場所であり、空間。ボウイが自分の「DNA」と呼んだ革新的な3部作、『ロウ』(1977年)、『ヒーローズ(英雄夢語り)』(1977年)、『ロジャー』(1979年)の基点だった。

ハウプトストラッセ155番地でのボウイは、ロサンゼルスで感じていたセレブリティであることのプレッシャーから逃れ、より長い歴史を持ち、気骨を備え、戦争で荒廃し分断された町が与えてくれる匿名性を、満喫することができた。「ディ・マウアー」、つまりベルリンの壁の陰で、ベルトルト・ブレヒト、キャバレー、表現主義のアート、ヨーロッパのファッション、そしてビールとソーセージを心ゆくまで楽しんだのだ。

それが、「ブラック・アンド・ホワイト」時代である。イギー・ポップ、ブライアン・イーノ、トニー・ヴィスコンティと共に、音楽的かつアーティスティックなクリエイティヴィティを花開かせた、濃密な14カ月間だった。ボウイはスタジオで絶え間なく、楽器のサウンド表現の実験を重ね、境界線を押し広げて、イーノの「オブリーク・ストラテジー」を積極的に導入。1978年には資金繰りに困って、全90公演のワールド・ツアーを開始し、マレーネ・ディートリヒとの共演作となる映画『ジャスト・ア・ジゴロ』に出演する。その後2013年に、東西統一後のドイツの首都に戻ってきた彼は、「我々は今どこにいるのだろう?いるのだろう?(Where are we now?)」と問いかけた。
23:ヤング・アメリカンズ YOUNG AMERICNAS

デヴィッド・ボウイは大きな窓から人生を見通している(名声を手にしている)
DAVID BOWIE is SCANNING LIFE THROUGHT THE PICTURE WINDOW

『ヤング・アメリカン』

アルバム『ダイアモンドの犬』のツアーの最中に、ボウイは次の作品『ヤング・アメリカン』に向けてレコーディングに着手していた。フィラデルフィアのシグマ・サウンド・スタジオから発信される音楽からも部分的に影響を受けて、音の探究者である彼は路線を変更。ケネス・ギャンブル、レオン・ハフ、トム・ベルがエンジニアを務め、大人数の弦楽器と管楽器の奏者をフィーチャーして、“フィラデルフィア・サウンド”として知られるようになるサウンドを作り出す。それは、ディスコを先駆けるものだった。

シグマ・サウンド・スタジオは、24トラックの録音設備を提供するアメリカで最初のスタジオのひとつだった。ボウイは『ヤング・アメリカン』の複雑なアレンジの大半をこのスタジオでレコーディングし、彼が“プラスティック・ソウル”と呼んだスタイルを構築。新たなコラボレーターには、ヴォーカリストのルーサー・ヴァンドロス、ドラマーのアンディ・ニューマーク(スライ&ザ・ファミリー・ストーンのメンバー)、ギタリストのカルロス・アロマーが含まれていた。中でもアロマーは、その後ボウイと20年以上にわたって共演することになる。『ダイアモンドの犬』の演劇的な曲群からの速やかな方向転換を経て、『ヤング・アメリカン』は彼にとってアメリカでの出世作となり、表題曲及び全米ナンバーワン・シングル『フェイム』の、2曲のヒットを輩出した。
24:ライブ LIVE

デヴィッド・ボウイは「君は素敵だね、手を握らせてくれ」と呼びかけている
DAVID BOWIE is SAYING YOU’RE WONDERFUL, GIVE ME YOUR HANDS
ツアー

2003年:「なんと素晴らしいショウだろう……ボウイは今でも、昨今のスターたちが全キャリアを費やしても醸すことができないカリスマを、たった1曲で投影できてしまう」。

生粋の革新的ライヴ・パフォーマーであるボウイは、1972年から2004年の間に12回のワールド・ツアーを行ない、31カ国での1,000回以上にのぼる公演を通じて、パントマイムからストリート・ダンスに至るパフォーマンスのテクニックを、ロック・ミュージックと融合させてきた。「なんらかの形で演劇に負うところがないパフォーマンスをステージで表現することは、僕には決して考えられない」。

常に記録的な動員数を誇っていたボウイだが、1983年のニュージーランドでのコンサートで動員した80,000人は、「全世界で、人口一人あたりで最大の人数の集まり」だった(1984年のギネス世界記録)。また、彼は観客にパフォーマンスを届ける新しい方法を考案し、2003年には22カ国の86カ所の映画館で、5万人の観客に5.1chサラウンド・サウンドでライヴ・コンサートを発信。そして無数のウェブサイトと、ミュージシャンが設立した史上初めてのインターネットサービスプロバイダであるBowieNetを経由して、彼はヴァーチャルな形で世界をツアーし続けた。
25:★ BLACKSTAR ブラックスター

デヴィッド・ボウイ(1947‐2016年)は今我々がいる場所である
DAVID BOWIE is WHERE WE ARE NOW

デヴィッド・ボウイは現在もミュージシャンたち、パフォーマーたち、ラディカルな思想の持ち主たち、アーティストたちにインスピレーションを与えており、今後も与え続けることだろう。彼はアヴァンギャルドな影響源を、大衆的アピールを備えた音楽とパフォーマンスに転化。ポピュラー・カルチャーが進む方向を予想し、そして定義付ける、並外れた技量に恵まれていた。聴き手を理解し、大胆で予測不能な選択をすることを好んだゆえに、そのアーティスティックな品位は妥協とは無縁だった。多くの人々にとってボウイは、新しいアイディアの媒介者であり、時代の先を読むアイコンなのだ。

2016年1月10日、彼の69歳の誕生日にして、絶賛を浴びた最後のアルバム『★(ブラックスター)』の発売日のわずか2日後に、この世を去ったボウイ。これを受けて、世界中で驚くべき規模の哀悼の声が湧き起こり、ひとつの黄金時代の終焉を告げた。1970年代に所属していたレコード会社が使った表現を転用するならば、「古い音楽があり、新しい音楽があり、そしてデヴィッド・ボウイがいる」と言えるのだろう。この展覧会はそんな彼のストーリーの一部分を伝えているが、残りは我々、つまりボウイの音楽を愛する人々に引き継がれている。我々と、彼の実像と伝説を結ぶ絆に。ボウイに関しては「絶対的な回答」は存在しない。しかしそこには、これまで以上に称賛し、役立て、再考し、我々のものにできる、豊かな作品の数々が残されているのだ。